「〜という言葉に出会った」。この”出会う”を英語でなんというかと調べたところ、無かった。findで済むそうだ。私たちは頻繁に擬人化した表現を使うが、この場合英語ではシンプルに「見つける」になる。
なぜだろうと思った。
実は西洋圏の方々は『ボクかキミか』という見方をなさる。敵か味方か、善か悪か、天使か悪魔かとなる。大雑把な話ではあるが、基本的な物の見方が二元性から来ている。そこに浸かって日々生きている。これは私の大発見ではなく、鈴木大拙をはじめ以前から指摘される方がいらっしゃる。残念ながらこの物の見方の大きな違いはあまり認識されていないと思う。
ワタシかアンタかの二元性が行き過ぎると「〜でなきゃいけない」という”こうあるべき”という思考パターンから世界を捉えようとする。これには一つややっこしさがまとわり付く。軋轢と批判が生じるのだ。SNSはよくそういうお祭りのような喧嘩騒ぎが起きている。やがては言い出した方も苦しくなる。
言葉に出会う、と表現する日本語圏で育った私たちは、無自覚に多元の世界で生きている。私たちは対峙せず、包み込んで物事を見る癖があるのではないか。森羅万象という表現、これを西洋の方に説明するのはなかなか難しい。あらゆるものを丸く包み込む感覚と、世界は二分している感覚、互いの真髄に流れているものがどうも違うからだ。
私たちが得意とする曖昧さ、これが良い方に動くと寛容さになる。悪い方に動けば、、、それはあなたのご想像に委ねる。(二分性の思考はまずは自分が世界の中心にくるので、自己肯定感が高くなるという利点があり、西洋人にはそのタイプが多い気がするがそれはさておき)
とはいえ寛容でいることは楽ではない。力強い、わかりやすいリーダーに”あっちへいけ、こっちへいけ”と言われた方が心労は減る。少なくともワタシは楽な方がいい。
それがまかり通らない世情となってきたのだから始末に置けない。寛大であれ?!優等生や聖人になることはない、少なくとも私には無理だ。ならば”仙人”はどうだろう。まずは空を見上げて、胸を広げ、風を感じてみる、か。
記載日2020年4月30日